
私の畳は“邪道”から始まった
きっかけは、友人の事故死と、ミサイル報道──
「このままでいいのか?」
そう思いはじめたのは、ある報道がきっかけでした。
私は23歳の時、南青山のインテリアショップの店長を任され、やりがいを持って働いていました。
けれどその一方で、会社は典型的なブラック企業。
1日12時間以上、一人勤務の過酷労働。理不尽なパワハラ、サービス残業、報われない日々……。
そんなとき、北朝鮮によるテポドン発射のニュースが突如流れ、社会全体が不安に包まれました。
それは、学生時代に喪った友人ともリンクし、「人はいつ死ぬかわからない」「明日を生きている保証なんてない」と実感するようになりました。
張りつめていた糸が切れた瞬間──退職の決意
両親からも心配され「もう辞めたら?」と言われるようになったある日、またも理不尽な出来事が起き、心の糸がぷつんと切れました。
「あ、もう無理だ…」 私は退職を決意しました。
英会話と海外──「やってみたかったことを、今こそ」
昔から興味があった英会話、そして海外での暮らし。
漠然と「27歳になったら」と思っていた夢を、「27歳で生きている保証はない」と現実に置き換え、退職後すぐに準備を始め、24歳でオーストラリアへのワーキングホリデーに旅立ちました。
畳のチカラを確信した、オーストラリアでの日々
現地で出会う日本人に「日本で恋しいもの」を尋ねる中で、驚くほど多く返ってきたのが──
「畳の上でゴロゴロしたい!」
とにかく意外でした。
でも、学生やバックパッカーたちに話を聞くうちに、こう確信したのです。
『日本人はやっぱり畳が好きで、どこか畳を恋しく思っている』
『日本人には畳文化のDNAがある』
香り・感触・ぬくもり── みんな、畳を恋しく思っている。
けれど、和室のない生活環境ではあきらめざるを得ない現実がありました。
畳離れは文化の否定ではなく、住環境の変化による「仕方のないこと」だったのです。
その気づきが、私にとっては嬉しくもあり、使命のようにも感じられました。

ワーキングホリデーでオーストラリアに渡ったとき、最初にオーストラリアのホームステイ先でのご夫婦。
英語が話せない私にとても温かく接してくれました。
帰国後、どん底の中で思い出した“畳”という光
帰国後の私は、いろんなことが重なって人生のどん底にいました。
親にも心配や迷惑をかけ、自分のことが許せない日々。
でも、このままではいけない。
這い上がらなくては──
そう思ったとき、ふと思い浮かんだのが「畳」でした。
はじまりは“口実”だった──
兄への贈り物として作らせてもらった、最初の畳
父は、ずっと畳を教えてくれるつもりなどありませんでした。
でも今の私の状態なら、もしかしたら……
今を逃したら絶対作らせてもらえないかも……
そんな少しずるい発想で、ちょうど一人暮らしを始める兄への贈り物という“口実”で、初めて畳を作らせてもらいました。
2005年3月。それが、ミニ畳<Joe>の最初の一歩でした。

教えてほしかったのに、結局半分以上?父が作ってしまった私の第1号作品
「邪道だ」と言われた私の畳──
それでも、やめなかった
3代目の父からは「邪道だ」と言われ、2代目の祖父には鼻で笑われたミニ畳〈Joe〉。
それでも私は、作り続けました。
なぜなら──
- 若者にも受け入れられる、お洒落な畳を作りたかったから
- 畳でゴロゴロできない人にも、気軽に畳を楽しんでほしかったから
そして何より、
「古臭い考えの人(父と祖父)に理解されなくてもいい!」
という気持ちで、自分の信じる道を突き進みました。

初期のミニ畳たち。主に風呂敷を使って作っていました。
今見るとだいぶ?恥ずかしいです…でもこれが私の原点です。
ミニ畳<Joe>の歩み
新聞掲載、NYギフトショー、世界遺産とのご縁まで
当時はOLをしながら何度も試行錯誤を重ねた<Joe>。
やがて全国地方新聞に取り上げられたり、小さなレンタルボックスでの出店がご縁となり、アメリカで開催されたNew York International Gift Fairに共同出展したり。
実力以上のご縁にも恵まれ、2024年には世界遺産にもつながるような特別なご縁をいただくことができました。
でも、忘れられないのは──
New York International Gift Fairをきっかけに連絡を受けた、イサム・ノグチ美術館に関するお話に応えられなかったこと。
技術的にも、ビジネス的にも、当時の私には到底無理で……
検討の余地なく、知人の畳屋さんにお願いすることになりました。
でも結局、あれから20年経った今も
残念ながらそれができる自分にはなれていないんですけどね。

はじめて全国の新聞に取り上げていただいたときの一枚。

初めて参加したイベントは、表参道ヒルズのレンタルボックス展示。
クイリング作家さんとの共同出店で、ここからNYギフトフェアへのご縁がつながりました。

生後9ヶ月の息子を家族に託し、弾丸で挑んだニューヨークの共同出展のイベント。
無力さと虚しさだけが残った出来事でした。
妊娠中、育児中、そして畳作り──
それでも、やめなかった理由
妊娠中の体でイベントに立ち、子どもを預けて出展し、時には制作から遠ざかることもありながら、それでもやめなかったのは──
家族の存在があったからです。
旦那さんは結婚前からこの活動を応援し、支え続けてくれました。
未熟で無力さを痛感して「もうやめようかな…」と思うたび、「辞めなくていいんじゃない?」と、いつも背中を押し続けてくれました。
夫と子どもたちは、最大の味方であり、支えであり、私の宝物
理解ある旦那さんと、
私のそばで見て育ってくれた子どもたち。
ときに相談相手となり、ときに手伝ってくれる“影のサポーター”たち。
20年続けてこられたのは、間違いなく家族のおかげです。
本当にありがとう。

妊娠8ヶ月で参加したイベントに、初めて両親揃って来てくれました。あの頑固親父が来てくれた…!!と、秘かに喜び感動しました。

家族には本当に感謝です…♡
おわりに・・・
こうして振り返ってみると、本当にあっという間の20年でした。
はじまりは、どん底からの──ちょっとズルい口実。
でも気づけば、それは私にとって、人生の大切な一部になっていました。
なんだかんだで見守ってくれた父、
そしてずっと応援してくれている母。
一緒に歩んでくれた家族のおかげで、ここまで続けてこられました。
そして何より、畳に出会ってくださったすべての方へ──心から、ありがとうございます。
これからも、ミニ畳という小さなカタチを通して、
誰かの暮らしにそっと寄り添える存在でありたいと思っています。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
こうして始まった私のミニ畳づくり。
第二章では、「専門店」という道を選んだ理由や、
「長南畳店」という名前に込めた想いについて綴っています。